前回のブログで、「幼稚園の先生のおたよりはAIで書いているのでは?」と感じて、私自身がモヤモヤした出来事を書きました。
その後、先生からのおたよりに私がお返事を書いたところ、なんと次の日には先生から返信が届きました。
丁寧で、きれいな文章。「○○な○○くん」というような表現もあって、「やっぱりAIなのかな?」と、一瞬また思ってしまいました(。-∀-)
でも、よく読んでみると、私が書いた内容への返事になっています。(当たり前ですね…)
さらに、息子とのやり取りや、前回の内容にはなかったそのときの受け答えまで細かく書いてくださっていました。
それを読んでいるうちに、今度は逆のことを思いました。
「いや、もしかして……これは先生もともとの文体なのでは?」
「AIっぽい」と感じるくらい、読みやすく、整った文章を書ける先生なのかもしれない。
そんなふうに、私の中で考えが巡ってきたのです。
お迎えのときには思わず、
「返信の返信まで、本当にご丁寧にありがとうございました!」
と、お礼を伝えました。

今回の出来事で、一番考えさせられたのは、自分自身の反応です。
「AIかもしれない」と思った瞬間、私はなぜショックを受けたのか。
作られたかもしれない文章だから?
AIという言葉への拒否反応?
「先生という仕事は、人間味あふれる言葉で子どもの成長を伝えてほしい」という、私自身の勝手な期待だったのではないか。
反対に、「AIじゃないかもしれない」と思ったときには、どこかホッとしている自分もいました。
でも、冷静になって考えると、その安心感は少し古い価値観なのかもしれません。
大切なのは、AIを使ったかどうかではなく、その文章に本当に子どもへのまなざしが込められているか。
今回の出来事を通して、そんな当たり前のことを改めて考えさせられました。

AIと人が一緒に働く時代だからこそ、「人にしかできないことって何だろう」と考える、いいきっかけになった出来事でした。

最近読んでいる本↓ AIは人らしさを奪うものではなく、人の温かさを支える道具にもなり得る!?




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